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「ら」 抜き言葉

「見れる」、「食べれる」などの「ら」抜き言葉を耳にしたり、書かれたりしていると、私は、すらっと聞いたり、読んだりするにはするのだけど、なんか違和感を覚えてしまうのね。

特に、本などの文章で「ら」抜き言葉を発見てしまうと、きちんと校正しているのかと疑問を持ってしまうのだ。

会話やブログのコメントなどで話ことばとして、「見れる」、「食べれる」と言われたり、書かれたりしていても、会話だから(運用語として)いいやって思えるのだけど、正式な文章で「ら」抜き言葉を許容してしまったら、どこで文法の正しさをカバーするのだろうって、思ってしまう。

たしかに、「見れる」、「食べれる」という言い方は、一般的に通用し、助動詞「られる」のあいまいさを緩和する働きがあり、日常当たり前のように利用されてきた経緯がある。

だから、「文法的におかしい」という非難は的外れの考え方で、言葉は時代と共に変化していくから合理的な変化であれば容認されるべきとの考え方があるけど、学校などの教育現場で「ら」抜き言葉を文法として認めている日本語の文法書ってあるのだろうか?

いつか、「ら」抜き言葉が文法上も正しいと言われる時代がくるかもしれないけどね。

でも、この言葉の省略って何も日本語だけの話じゃないんです。

たとえば、英語で「do助動詞」というのがあるんだけど、英語の平叙文で、実際に中世ごろまで使われていた。

I (do) make money on the bicycles on Sunday. 日曜日、競輪で儲ける。

「do助動詞」「~する、~である」という意味だから、一般動詞の意味と重複してしまうため、省略した文体に統一された。

ただ、「do助動詞」平叙文から省略されたことで、助動詞として本来持っていた「話し手の主観的な判断(~と思う。)」というニュアンスが消えてしまったのだ。

つまり、「do助動詞」が省略された一般動詞だけの平叙文では、話手の判断を伴わない「客観的な事実(~である。~だった。)」をあらわすようになった。

これを、「ら」抜き言葉に重ね合わせてみると、「~られる」にすると「可能表現」「受身表現」「自発表現」「尊敬表現」に分かれるが、「~れる」にすると「可能表現」に統一される効果があり、英語の平叙文「do助動詞」が省略されることで「客観的な事実」をあらわす文体に統一されたパターンに似ているとも思えるのである。

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